大阪の陣

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大阪の陣についてとりとめもなく思いついたことを書きます。

関ヶ原合戦後の豊臣家

家康は、関ヶ原合戦で大勝した。豊臣家の領地を東軍の大名の恩賞として、全国各地にあった直轄領の二百二十万石のうち、四分の三を没収した。その結果、豊臣家の所領は摂津、河内、和泉の六十五万石になった。

関ヶ原合戦に負けて、取り潰された大名は、九十家、四百三十四万三千六百石。領地を削られた大名は、四家、二百二十一万五千九百石。合計で六百五十五万九千五百石。

一万石で三百人程度だとすると、二十万人程度の浪人が出たことになる。中には、後藤又兵衛のように、主家を出て、浪人になった者もいる。

大量の浪人は、大坂城を目指すことになる。

大坂城の豊臣家の主は豊臣秀頼だが、まだ幼い。そのため、秀吉の側室であり、秀頼を生んだ、淀殿、その側近が物事を決めていた。

関ヶ原合戦後、簡単に言うと、天下は徳川家が支配しているが、豊臣家とは共存共栄の状態であった。

関ヶ原合戦後、三年経った、

一六〇三年(慶長八年)、二月十二日、家康は征夷大将軍、源氏長者になった。

このころ、家康は孫の千姫を秀頼のもとに輿入れさせるなど、豊臣家と融和政策を推進しようとしていた。

その年の七月、豊臣秀頼は、十歳のとき、結婚した。

秀頼の妻は、六歳の千姫で、二代将軍になる徳川秀忠の娘、すなわち徳川家康の孫であった。秀頼の母は、淀殿。千姫の母は、淀殿の妹のお江。淀殿とお江の母は、浅井長政の正室のお市の方で、お市の方は織田信長の妹。秀頼と千姫は従弟同士であった。

豊臣秀吉は、生前、家康に、秀頼と千姫の結婚の約束をさせていた。関ヶ原の戦いで実質的に天下をとったが、家康は秀吉との秀頼と千姫の婚姻の約束を守った。

家康は、諸大名の大半は豊臣恩顧の大名で、徳川家の天下も盤石といえない。そのため、この時点では、徳川家と豊臣家の和平を図った方が有利と判断していた。慎重であるため、急激な変化を望まず、漸進主義の政策をとっていた。

まだ、まだ、生きる自信があった。家康は、秀頼と千姫の間に子どもが生まれればと思っていた。

このころまで、徳川家と豊臣家は比較的良好な関係にあった。

国松誕生

一六〇五年(慶長十年)三月二十一日、徳川秀忠は、十六万の兵を率いて上洛。

四月十二日、豊臣秀頼は右大臣となる。

四月十六日、家康は徳川秀忠に征夷大将軍を譲り、秀忠が二代将軍となった。

秀忠は、一五七九年(天正七年)、家康の三男として生まれた。

秀忠が生まれた年、家康の長男の信康が自害させられた。

秀頼の官位は右大臣で、家康と同格であった。

ちなみに、一六〇三年十月、家康は右大臣を辞した。現将軍の秀忠は内大臣であり、秀頼の方が官位は上であった。そのため、秀頼が関白に昇進するのではないかといわれていた。一方、家康が子供の秀忠に将軍を譲ったことに豊臣方は反発した。

五月十日、家康は、北政所を通じて、秀頼に上京を求めた。

淀殿は拒否した。

家康は、六男の松平忠輝を大坂に遣わし、秀頼を訪ねた。

その後、秀頼は、十五歳のとき、侍女のお由志との間に、国松を生んだ。

豊臣家は、国松誕生を公表しなかった。

お由志は、淀殿付きの成田弥太郎の娘である。成田家は伊勢の地侍で、弥太郎の父の成田左衛門が豊臣秀吉に仕えていた。

この豊臣秀吉の孫にあたる、国松の誕生は、大坂の陣の一つの原因となった。

家康は、自分の孫の千姫以外の女性から誕生した、秀吉の孫が非常に不快だった。淀殿が秀頼と千姫を遠ざけていると聞いた。

淀殿との関係も悪化してきていた。

家康は、考えが変わってきた。自分が生きているうちに、万全の態勢を構築する必要がある。そのためには、豊臣家を武力で討伐するしかない。

しかし、豊臣家は徳川家の家来ではなく、豊臣家を討伐する大義名分がない。今、豊臣家を攻めれば世間から批判される。また、関ヶ原の戦いで武功をあげた東軍の豊臣恩顧の大名に所領を与えすぎた。そのため、加藤清正、福島正則、浅野幸長らの豊臣恩顧の大名の力はまだ強い。それに島津家、毛利家、上杉家、佐竹家らの関ヶ原の戦いの負組が加われば脅威となる。

しかし、このままの状態で家康が亡くなれば、徳川家の安泰は望めないと不安であった。秀吉の晩年の気持ちがわかってきた。そのため、少し焦っていた。

だが、家康は、まだ、この時点ではときを待っていた。自分の健康を維持することを考えていた。自分が生きていればよいと。

会見

家康は、豊臣秀頼に伏見城に来ることを要求していた。

以前、家康は、豊臣秀吉に大坂城に来いと何度も要求された。家康は、なかなか行かなかった。

秀吉は、妹を家康の妻とした。また、秀吉の実母を人質として、おくった。そして、ようやく、家康は、大坂城に行った。

今度は、秀頼を大坂城から出し、伏見城に来させる。家康は、何度も申し入れていた。

一六一一年(慶長十六年)三月、天皇即位に上洛する家康は、二条城での秀頼との会見を要請した。

大坂方では淀殿らが反対したが、加藤清正、浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らが説得した。

三月六日、家康は、駿府を出た。七十歳の家康は、十二歳の九男の義直、十歳の十男の頼宣を連れて行った。九男の義直は、関ヶ原の戦いの二ヶ月後の十一月、京で生まれた。三十三歳の将軍の秀忠は、江戸城に残った。

三月十一日、尾張の名古屋に入った。加藤清正が普請した名古屋城は完成していなかった。

三月十三日、岐阜に入った。家康は、ここまで来ると関ヶ原の戦いを思い出した。

三月十七日、京の二条城に入った。そして、その日に、伏見城に入った。

三月二十七日、秀頼は、大坂城を出た。

三月二十八日、家康と秀頼の二条城会見が実現した。

これで、東西の手切れがなくなったかにみえた。

方広寺の鐘銘 

しかし、二条城会見後、四月七日、六十五歳の浅野長政、六月二十四日、五十歳の加藤清正が亡くなった。

一六一三年(慶長十八年)、五十歳の池田輝政、三十八歳の浅野幸長が亡くなった。

一六一四年(慶長十九年)、前田利長が亡くなった。

相次いで豊臣恩顧の大名が亡くなったことにより、豊臣家は苦境に陥った。

特に、二条城会見を実現させた、加藤清正、浅野幸長が亡くなったことは、豊臣家にとって痛かった。

豊臣家を支えた軍事的な基盤が崩壊してしまった。

話は変わるが、豊臣秀吉は、大和の東大寺のような大仏をつくろうと考え、大仏の建築を始めた。一五九五年(文禄四年)、大仏殿が完成した。しかし、翌年の一五九六年(慶長一年)、大地震のため、崩壊した。

秀吉の死後、大仏の再建が始まった。しかし、一六〇九年(慶長十四年)、作業中に、火事になり、灰となった。その後、一六一四年(慶長十九年)、大仏殿が再建された。そして、八月に落慶法要を行うことが決まった。八月十八日は、秀吉の命日で、十七回忌にあたるため、八月となった。

ところが、七月、方広寺の鐘に刻まれた銘文が問題となった。銘文の「国家安康」が家康の文字を分断している。また、「君臣豊楽」が豊臣を君として楽しむとの意味ではないかと問題にされた。

この鐘銘の問題のため、落慶法要は延期された。

鐘銘についての交渉が行われた。

その交渉で脚光を浴びたのが、片桐且元である。片桐且元は、豊臣家の家老、幼名は助作。秀吉の晩年になって、一万石の大名になった。片桐且元は、豊臣秀吉に、「助作、お拾の世話をしろ」と秀頼の補佐を命じられた。片桐且元は、賤ヶ岳の戦いの七本槍の一人。同じ七本槍の加藤清正、福島正則は、五十万石の大大名になった。浅野長政なども出世した。それに比べて大きく出世が遅れた。旗本で三千石にすぎなかった。片桐且元は、律儀すぎるため、器量が小さく、人の上に立てないと評価されていた。片桐且元は、近江人であった。しかし、同じ近江人の出世頭の石田三成とは親しくなかった。関ヶ原の戦いで石田方に味方しなかった。そのことが幸いした。太閤の子飼いの出世コースは、秀吉夫婦と同じ尾張出身者。とりわけ、秀吉と縁続きの加藤清正、福島正則は二十歳代で大名になった。また、北政所と縁続きの浅野長政であった。片桐且元は、北政所とは比較的関係がなかった。片桐且元の父の孫右衛門は浅井家に仕え、武功をあげていた。片桐家は、淀殿の父の浅井家に仕えていた。そのため、当時、淀殿は片桐且元を信用していた。片桐且元は、秀吉から秀頼の世話をしろと命じられたが、傅人ではない。傅人は、前田利家である。片桐且元には権限はなく、雑務を行う程度のものであった。関ヶ原の戦いのとき、片桐且元は、秀頼の側にいた。

関ヶ原合戦後、大坂城に入った、家康は、片桐且元に豊臣家の家老を命じた。淀殿は、家康から家老を命じられた片桐且元は、千姫と同じく、徳川方であると考えていた。そのため、淀殿は、片桐且元を秀頼から遠ざけた。

片桐且元は、豊臣家の家老といっても、直接、秀頼に会うことができなかった。秀頼は、淀殿、淀殿の側近の侍女、大野治長が囲んでいた。

片桐且元の弟の片桐貞隆は、昔、加兵衛と呼ばれていた。秀吉は、兄を助けて、よく戦っていたのを見ていた。そのため、兄とは別で直参として取り立て、天正十三年には従五位下の兄と同じ官位にした。大名となり、大和小泉一万五千石の家祖となった。後に、一万一千石になり、明治維新まで続いた。

一六一四年(慶長十九年)八月、豊臣家は鐘銘などの弁明のため、片桐且元を駿府にやった。しかし、家康は且元と会わなかった。和解のための条件も提示しなかった。

その後、豊臣家は大野治長の母の大蔵卿局、渡辺糺の母の正栄尼を駿府にやった。家康は大蔵卿局、正栄尼に会った。丁寧に対応した。そして

「今回のことは安心されよ」

家康はにこやかに話した。

大蔵卿らは、淀殿に伝えた

「家康から、安心せよ」と言われたことを。

一方、家康は、本多正純と金地院崇伝を派遣し、方広寺の鐘銘、大坂方の浪人について且元に詰問した。

且元は三つの案を考え、大坂に向かった。

八月十八日、秀吉の命日の日に、且元は大坂に戻り、①秀頼を江戸に参勤させる、②淀殿を人質として江戸に置く、③秀頼が国替えに応じ大坂城を退去するの三案を述べ、徳川家との融和を進言した。

淀殿には、且元と大蔵卿の対極の回答が伝えられた。

淀殿は、且元が家康に会っていないのに、進言したのは、徳川にすり寄り、豊臣家を売ろうとしたと考えた。且元に対して、淀殿は怒った。

大坂城内で、且元に批判が続出した。

且元は、大坂城を出ることを決意した。

九月、家康は、西国大名に対して誓書を提出させていた。

大阪の陣の経緯

十月一日、家康は諸大名に出陣の命を下した。且元は弟の貞隆らとともに大坂城を出た。

豊臣方も、東西の手切れを覚悟して、豊臣恩顧の大名を味方に誘っていた。

しかし、福島家、加藤家、浅野家、黒田家、池田家、蜂須賀家、細川家、生駒家らの大名は、入城を断った。大坂方の見込みははずれた。

十月六日、長宗我部盛親、後藤又兵衛ら大坂城に入城した。

十月十日、真田幸村は大坂城に入城した。

十月十一日、家康は駿府を出発した。

十月十六日、家康は三河の岡崎に着いた。尾張の名古屋城主徳川義直は、名古屋を出発した。

十月十八日、家康は越前の北の庄城主の松平忠直を東寺に布陣させた。また、加賀の金沢城主の前田利常を淀の鳥羽に布陣させた。

十月二十三日、家康は京の二条城に入った。

十月二十五日、家康は藤堂高虎、片桐且元に先鋒を命じた。

十一月五日、藤堂高虎、松平忠直、前田利常らは、摂津の安倍野、住吉の間に陣を進めた。

十一月七日、加藤嘉明の嫡子の明成は、摂津の神崎川を渡った。池田忠継は、中之島の大坂方を攻め、大和田を奪った。

十一月十一日、秀忠は京の二条城に入った。

十一月十五日、家康は二条城を出発し、奈良に着いた。秀忠は伏見城を出発し、河内の枚方に着いた。

十一月十七日、家康は摂津の住吉に布陣した。

十一月十八日、家康と秀忠は摂津の茶臼山で、軍議を開いた。

徳川方は二十万、豊臣方は十万。

十一月二十六日、豊臣方の木村重成、後藤又兵衛らは摂津の今福に出てきて戦った。

十二月一日、豊臣方は、船場方面の橋などを焼いた。高麗橋に迫ったが、徳川方の美濃の大垣城主の石川忠総が迎え討った。

十二月四日、真田丸などで豊臣方の勝利。

十二月十一日、家康は地下道を掘らせる。

十二月十六日、徳川方は大坂城を砲撃した。豊臣方は、夜襲した。

大筒が大坂城の天守閣にあたった。

十二月十九日、家康の側室の阿茶の局、本多正純は常高院と会見した。

十二月二十日、常高院らを遣わし、家康の誓書を受けとらせた。和議が成立した。

十二月二十一日、木村重成を摂津の岡山に遣わし、秀忠の誓書を受けとらせた。家康は大坂攻めの諸大名に本陣を退かせた。大坂城の外構えのとり壊し、総濠の埋め立てを命じた。

十二月二十二日、家康は阿茶の局らを大坂城に遣わし、秀頼と淀殿誓書を受けとらせた。

十二月二十六日、家康は二条城に帰った。

一月三日、家康は二条城を出発し、駿府に向かった。

一月十一日、片桐且元、弟の貞隆は大和の法隆寺に閑居する。

一月十九日、大坂城の総濠の埋め立てが終了したので、秀忠は京の伏見城に帰った。

一月三十日、本多正純は、遠州の中泉にいた、家康に大坂城が再び不穏な動きをしていることを報告した。

一月二十八日、秀忠は京を出発し、江戸に向かった。

二月十四日、家康は駿府に帰った。秀忠は江戸に帰った。

三月十八日、家康は大坂再出陣を決めた。

四月四日、家康は尾張の名古屋城主の徳川義直の婚儀のため、駿府を出発した。

四月五日、家康は秀頼に、大和又は伊勢に移るか、浪人を大坂城から出すかを求めた。

四月六日、家康は京の伏見、鳥羽まで進軍させた。

四月七日、家康は西国の大名に出陣を命じた。

四月八日、織田有楽、尚長親子は大坂城を出た。

四月九日、大野治長は大坂城にて闇討ちをうけ、負傷した。

四月十二日、名古屋城主の徳川義直と浅野幸長の娘が婚姻。家康は婚儀に出席。

四月十八日、家康は京の二条城に入った。

四月二十日、黒田長政、加藤嘉明らは京に入った。

四月二十一日、秀忠は伏見城に入った。

四月二十二日、家康と秀忠は二条城で会談。

四月二十六日、家康と秀忠は二十八日出陣を決めた」。

しかし、その後、豊臣方の二条城の放火の企てが漏れ、出陣の日を五月三日に延期。

四月二十九日、徳川方の浅野勢と豊臣方が和泉で戦った。徳川方の勝利。

四月三十日、徳川方の先鋒の水野勝成、本多忠政、松平忠明らは大和口に布陣。

五月一日、家康は五月三日に出陣することを命じた。

五月三日、家康は出陣を延期し、五月五日とした。

五月五日、家康は二条城より河内の星田に出陣。秀忠は伏見城より河内の砂に出陣。徳川方の大和口の先鋒は河内の国分に進軍。藤堂高虎は河内の千塚、井伊直孝は河内の楽音寺に出陣。

五月六日、道明寺付近で激戦。若江、八尾で激戦。徳川方の勝利。家康、秀忠は軍を進めた。

五月七日、家康、秀忠は大坂城に軍を進めた。天王寺、岡山付近で激戦。豊臣方敗北。大坂城が焼けた。

五月八日、大坂城にて、秀頼、淀殿ら自害した。

片桐且元

豊臣家の家老は、片桐且元、幼名は助作。

秀吉の晩年になって、一万石の大名になった。

片桐且元は、豊臣秀吉に、「助作、お拾の世話をしろ」

と秀頼の補佐を命じられた。

片桐且元は、賤ヶ岳の戦いの七本槍の一人。

同じ七本槍の加藤清正、福島正則は、五十万石の大大名になった。

浅野長政なども出世した。

それに比べて大きく出世が遅れた。

旗本で三千石にすぎなかった。

片桐且元は、律儀すぎるため、器量が小さく、人の上に立てないと評価されていた。

片桐且元は、近江人であった。

しかし、同じ近江人の出世頭の石田三成とは親しくなかった。

関ヶ原の戦いで石田方に味方しなかった。

そのことが幸いした。

太閤の子飼いの出世コースは、秀吉夫婦と同じ尾張出身者。

とりわけ、秀吉と縁続きの加藤清正、福島正則で、二十歳代で大名になった。

北政所と縁続きの浅野長政であった。

片桐且元は、北政所とは比較的関係がなかった。

片桐且元の父の孫右衛門は浅井家に仕え、武功をあげていた。

片桐家は、淀殿の父の浅井家に仕えていた。

また、北政所との関係も薄かった。

そのため、当時、淀殿は片桐且元を信用していた。

片桐且元は、秀吉から秀頼の世話をしろと命じられたが、傅人ではない。

傅人は、前田利家である。

片桐且元には権限はなく、雑務を行う程度のものであった。

関ヶ原の戦いのとき、片桐且元は秀頼の側にいた。

関ヶ原の戦い後、大坂城に入った、家康は、片桐且元に豊臣家の家老を命じた。

淀殿は、家康から家老を命じられた片桐且元は、千姫と同じく、徳川方であると考えていた。

そのため、淀殿は、片桐且元を秀頼から遠ざけた。

片桐且元は、豊臣家の家老といっても、直接、秀頼に会うことができなかった。

秀頼は、淀殿、淀殿の側近の侍女、大野治長が囲んでいた。

加藤清正

大男であった。

虎退治で有名で、長い兜を愛用した。

長い兜にしたのは、戦いのときに目立つようにするため。

戦国大名は、戦いで武功をあげて、領土を得ようとする意識が強かった。

そのため、兜などを目立たせ、自分の武功がわかるようにしていた。

朝鮮において虎狩りをした。

豊臣秀吉の命令で、虎狩りをしたといわれている。

秀吉は虎の肉が長寿の効用があると聞き、命じた。

加藤清正は、福島正則、加藤嘉明、藤堂高虎とも良好な関係であった。

ちなみに、福島正則と藤堂高虎は仲が悪く、加藤嘉明と藤堂高虎も仲が悪かったといわれている。

加藤清正は、尾張の中村で、一五六二年に生まれた。

母が秀吉と従姉妹であったといわれている。

賤ヶ岳の戦いの七本槍で有名になった。

上杉征伐のため、上方に来る途中、三成の挙兵を知り、九州に戻った。

清正は、家康の命により、関ヶ原の戦いのとき、肥後にいた。

清正は、黒田如水と組み、九州を席巻した。

関ヶ原の戦い後、肥後の熊本十九万五千石から、肥後五十二万石に加増された。

一六一一年(慶長十六年)三月、豊臣秀頼と家康の会見を実現させた。

そのとき、秀頼のお供をした。

その直後の六月、熊本城で亡くなった。

加藤清正は、清正をして神となった。

福島正則

眉毛が濃く、団子鼻、首が太く、がっちりとした体形。今のラグビー選手のようで感じであった。

福島正則は、一五六一年(永禄四年)、母は秀吉の母の妹で、尾張に生まれた。

家は、桶屋で、怪力の持ち主。

幼少より豊臣秀吉に仕え、市松と称した。

賤ヶ岳の戦いでは、柴田勢の追撃戦で、一番槍の武功をあげ、賤ケ岳の七本槍の一人。

一五八五年(天正十三年)、伊予の今治十一万石を与えられた。

九州攻め、北条攻め、朝鮮の役などで活躍した。

一五九五年(文禄四年)、尾張清洲二十四万石。東軍の主力として最前線で活躍。

また、兵糧米を工面するなどの功は大きく、関ヶ原の戦い後、安芸広島五十万石をもらったが、決しておごらず部下をねぎらったといわれている。

一六一九年(元和五年)、城の無断修築で領地没収となる。

一六二四年(寛永元年)に亡くなった。

福島正則は、豊臣家を存続させたい。それが本音であった。

しかし、関ヶ原の戦い当時、三成が憎いとの感情は抑えることができないほど強かった。

三成が自分の上に立つことは許せなかった。

豊臣家は存続させたいが、三成に味方はできない。

初めに、秀吉に会ったときを思い出し、幼少のころの記憶が蘇った。

福島正則は関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の大名で勝ち、家康に対抗できるようにしたい。

徳川勢より、豊臣勢が手柄を立てて、豊臣の影響力を強めておく必要があると考えていた。

福島正則は、家康に味方すると言い、清須城にある米三十万石を進上した。

家臣の祖父江法斎を長として、情報を集めた。

例えば、西軍の使者の脱糞まで調べて、脱糞の温度で、時刻を推測したりした。

正則は、家臣に「憎むべき三成勢と直接決戦する」と、石田勢と戦いを望んでいた。

しかし、対峙しているのが、宇喜多勢と知り、がっかりしていた。

福島丹後は、正則を諌め、「戦機を逃してはなりませぬ」と諭した。

正則は、小山で「このたびの反乱は、三成個人の計であって、天下を乱さんとするものである。

他の人はいかになさるとも、自分はこのような時機に臨んで、妻子に引かれて武士の道を踏み違えるようなことはいたさない所存である。

内府公の御為に、身命をなげうって御味方をする決心である」

と大声で話し、豊臣恩顧の大名の東軍の参加を促進したことを想い出した。

そのことを後悔していた。

 

浅野幸長

 

浅野幸長の母は、豊臣秀吉の正室の北政所の妹。

浅野幸長は、秀頼とは従弟。

浅野幸長は、一五七六年(天正四年)、浅野長政の長男として、近江浅井郡小谷で生まれた。

幼少より秀吉に仕え、北条攻めでは、十五歳で疱瘡の病後ながら初陣し、岩槻城を攻めで、武功をあげた。

朝鮮の役では、蔚山の戦において加藤清正とともに籠城し、耐えて持ちこたえた。

加藤清正、福島正則などとともに、三成憎しの武功派の七人衆の一人であった。

家康に味方し、東軍として岐阜城を攻めた。

関ヶ原の戦いでは、南宮山の毛利勢に備えた。

関ヶ原の戦い後、甲斐十六万石から、紀伊の和歌山三十七万六千石に加増。

家康と秀頼との会見のときには、秀頼の側を離れなかった。

大坂の陣の前、一六一三年(慶長十八年)に亡くなった。

子がなかったため、浅野家は弟の長晟が相続した。

北政所

北政所こと、ねねは、一五四六年、杉原定利の次女として、尾張で生まれた。

養父は浅野長勝、実兄は木下家定。

一五六一年(永禄四年)、織田信長の家臣の木下藤吉郎に嫁ぐ際、実母の朝日らに反対された。兄の家定が秀吉に養子縁組するとして説得した。恋愛結婚であった。結婚式は、藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。

一五七四年(天正二年)、近江の長浜十二万石となった秀吉のもとに、秀吉の生母のなかとともに住んだ。その後、大阪城に移り、北政所となる。天下人の妻として、北政所は朝鮮との交渉を行ったり、人質として集められた大名の妻子を監督したりした。

秀吉の死後の翌年の一五九九年(慶長四年)、大坂城の西の丸を出て、京の屋敷に住んだ。一六二四年(寛永元年)に亡くなった。

ねねは、秀吉教の熱烈な信者の三成に、俊敏な才気、行動力があるため、それが仇になる。

三成は、時間が立てば、自分の影響力が低下すると考え、それを恐れていると感じていた。

あと、数年、待てば、家康は、死に、秀頼は成人になるのに、待ってないものかと思っていた。

今は、家康のように待つことが肝要である。

家康と三成と比べて、天下の器量は、家康であると考えていた。

そのため、大坂城の西の丸を家康に明け渡した。

それが戦いにならず、天下泰平の道となると考えていた。

関ヶ原の戦いときも戦いがないようにと京で願っていた。

そして、今も豊臣家の存続は願っていた。

秀吉夫婦の縁続きの豊臣と徳川の和平の願い

家康は、豊臣秀頼に伏見城に来ることを要求していた。

家康は、以前、豊臣秀吉に大坂城に来いと要求された。

秀頼を大坂城から出し、伏見城に来させる。

家康は、何度も大坂城に申し入れていた。

秀吉夫婦の縁続きの加藤清正、福島正則、浅野幸長は、徳川方と豊臣方に事がないように進みたいと思っていた。

そのため、その仲介役をかってでようとしていた。

仲のよい者は、言葉を発しなくてもわかった。

今の表現で言う、アイコンタクトがあった。

例えば、ラグビーでは目で話すことによって、ボールをつないでいくように。

家康は三月下旬、京に上洛する。

そのとき、秀頼を伏見城に行かせ、家康と会見させる。

この機を逃すと、戦になる恐れがある。

加藤清正、福島正則、浅野幸長は話し合った。

家康が死ぬまで、徳川家と事を構えないことを確認した。

まず、淀殿の説得をどうするか、この日、朝まで語り合った。

大野治長に説得させる。

最終的には北政所に淀殿を説得してもらう形をとる。

伏見城に向かう途中も、秀頼には加藤清正と浅野幸長が付き添って守る。

福島正則は大坂城にいて、兵をあげる構えをみせる。

その後、最後は淀殿に迫って、承知させた。

一六一一年(慶長十六年)三月六日、桜が散った後、家康は、駿府を出た。

七十歳の家康は、十二歳の九男の義直、十歳の十男の頼宣を連れて行った。

三十三歳の将軍の秀忠は、江戸城に残った。

三月十一日、尾張の名古屋に入った。

加藤清正が関わった名古屋城は完成していない。

三月十三日、岐阜に入った。

家康は、ここまで来ると関ヶ原合戦を思い出した。

三月十七日、京の二条城に入った。

そして、その日に、伏見城に入った。

三月二十七日、秀頼は、大坂城を出た。

家康と秀頼は、会見した。

和解が成った。