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豊臣恩顧大名の派閥 

信長は、豊臣恩顧の大名の派閥、人間関係を分析した。

豊臣恩顧の大名の派閥は、文治派と武功派に大きく二つに分かれている。

豊臣政権は、太閤検地などのより、中央集権化を促進した。

そのため、今でいう国の行政の実務が行える役人が重用された。

その筆頭が石田三成であった。

国の役人である三成らは、石高は少ないが、近畿に所領を持っていた。

それに対して、加藤清正、福島正則、黒田長政らは、石高は多いが、近畿以外の遠隔地に配置された。

そのため、国の政権運営に関わることが難しかった。

大名の配置換えを行った後、朝鮮への出兵を命じられ、大名の負担が増加した。

このような命令は、秀吉が出していることはわかっていたが、秀吉に矛先を向けるのではなく、実務責任者の三成に恨みを向けた。

朝鮮の役では、小西行長と加藤清正が先鋒争いで対立したり、文治派と武功派の確執がさらに拡大した。

豊臣恩顧の大名は、三成、行長らの文治派と清正、正則らの武功派に分かれて、分裂した。

豊臣政権の運営は、三成らの文治派が握っていた。

また、武功派の中でも、秀吉夫妻と縁続きの加藤清正、福島正則、浅野幸長の力が強かった。

加藤清正、福島正則、浅野幸長は、三成の対抗馬としての家康に味方したが、豊臣秀頼に重きをおいていた。

関ヶ原合戦後、加藤清正、福島正則、浅野幸長は、徳川家と豊臣家の和平のために尽力し、一六一一年(慶長十六年)三月、豊臣秀頼と家康の二条城会見を実現した。加藤清正、福島正則、浅野幸長は、豊臣方と徳川方に手切れがないようにしたいと思っていた。そのため、その仲介役をかって出た。

仲のよい者は、言葉を発しなくてもわかった。今の表現で言う、アイコンタクト。例えば、ラグビーでは、アイコンタクト、目で話すことによって、ボールをつないでいく。そのように三人は、仲がよかった。

福島正則の母は秀吉の母の妹といわれている。

加藤清正の母は秀吉と従弟といわれている。

浅野幸長の母は豊臣秀吉の正室の北政所の妹。浅野幸長は秀頼とは従弟になる。

三十九歳の加藤清正は、一五六二年、尾張の中村で生まれた。

賤ヶ岳の戦いの七本槍として有名になった。

上杉征伐のため、上方に来る途中、三成の挙兵を知り、九州に戻った。

清正は、家康の命により、関ヶ原合戦のとき、肥後にいた。

黒田如水とともに清正は九州を席巻した。

清正は大男であった。虎退治で有名で、長い兜を愛用した。長い兜にしたのは、戦いのときに目立つようにするためであった。

戦国大名は、戦いで武功をあげて、領土を得ようとする意識が強かった。そのため、兜などを目立たせ、自分の武功がわかるようにしていた。

朝鮮において虎狩りをした。豊臣秀吉の命令で、虎狩りをしたといわれている。

秀吉は虎の肉が長寿の効用があると聞き命じた。

加藤清正は、福島正則、加藤嘉明、藤堂高虎とも良好な関係であった。

ちなみに、福島正則と藤堂高虎は仲が悪く、加藤嘉明と藤堂高虎も仲が悪かったといわれている。

関ヶ原合戦後、肥後の熊本十九万五千石から、肥後五十二万石に加増された。

一六一一年(慶長十六年)三月、豊臣秀頼と家康の会見のとき、秀頼のお供をした。

その直後の六月、熊本城で亡くなった。加藤清正は神となった。

黒田長政は、朝鮮の役で、三成の讒言により秀吉から不興をかい、三成に恨みを抱いた。秀吉の死後、家康に近づいた。そして、豊臣恩顧の大名と家康との橋渡しの役割を担った。

また、細川忠興も、秀吉の死後、家康に近づいた。

藤堂高虎は、以前から家康に近づいていた。

黒田長政、細川忠興、藤堂高虎らは、豊臣政権では将来が暗いと考えていた。そのため、関ヶ原合戦で、家康の味方を増やすため、大名の凋落に力を尽くした。

武功派の中でも、家康の天下がよいと考える、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎らと、豊臣秀頼の天下がよいと考える、加藤清正、福島正則、浅野幸長らの勢力があった。

また、家康の天下がよいと考えた、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎らの中でも、三成憎しの黒田長政、細川忠興と、そうでない者と温度差があると感じていた。


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