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真田幸村

真田幸村は、一五六七年、真田昌幸の次男として生まれた。

関ヶ原の戦いでは、父とともに西軍に味方して、信州の上田城で徳川秀忠勢の動きを封じた。

自分たちの戦いには勝ったが、関ヶ原の戦いで西軍が惨敗した。

東軍に味方した兄の真田信之が助命を嘆願して、本多忠勝も加勢してくれた。

その結果、父とともに高野山に蟄居と決まった。

一六〇〇年(慶長五年)、十二月十三日、真田親子らは信州の上田を去った。

十二月末、高野山領地内の九度山に、家臣十六名とともに移り住んだ。

高野山は、女人禁制なので、女人も住める高野山の麓の九度山になった。

翌年、真田幸村の嫡男の大助が誕生した。

九度山は高野山の麓のすり鉢状の地形で、真田庵は、丹生川の側にあった。

真田庵の近くに、真田抜け穴伝説の言い伝えのある、六世紀ごろの古墳跡の真田古墳がある。

真田古墳の穴が大坂城まで続いており、その抜け穴を使って、戦場に入ったとの伝説が残る。

北には、北斗七星が輝いていた。

ちなみに、天文兵法も活用したといわれている。

真田親子は、九度山で夜空を眺めながら、信州のことを思い出していた。

幸村、父などの家族、家臣十六名、忍びなど百人程度。

その者を養うため、商売を始めよう。

また、全国の情報を得ようと考えた。

丈夫な紐をつくることを考え、真田紐をつくり始めた。

真田紐は売れた。

売れると販売網が広がる。

販売網が広がれば、各地の情報が入るようになる。

真田紐を忍びたちが売りに行くことで、京、大坂、全国の情報がわかった。

忍びの者からの情報を分析した。

真田幸村は、焼酎が好きでたびたび焼酎を送ってくれるように手紙を出していた。

信州の名産である、こねつけ餅を好んだ。

家臣につくらせ、食べた。

一六一一年(慶長十六年)六月四日、父の真田昌幸は、十一年間、九度山の真田庵で過ごし、病気で亡くなった。

真田庵で葬儀が行われた。

六十四歳であった。

その後、家臣とともに一年間喪に服した。

真田幸村、三十五歳から四十八歳までの十四年間、九度山において充電した。

一生懸命していれば、天が見ている。

だれかが見て、評価してくれる。

真田幸村は、九度山の配流の身で、逆境にあっても腐らず、世間をすねていなかった。

その幸村に、一六一四年(慶長十九年)、豊臣家から使者が来た。

関ヶ原の戦いから、十四年。

「かくれ住んで花に真田が謡かな

炬燵して語れ真田が冬の陣」

蕪村

 

真田昌幸

真田家の祖先は、信州小県郡海野庄の豪族の慈野氏の流れをくむ一族といわれている。

真田幸村の父の真田昌幸は、一五四七年(天文十六年)、真田幸隆の三男として、信濃で生まれた。

本能寺の変後、独立の大名となった。

大大名の上杉、徳川、北条に接していたが、真田家の領土を守った。

真田昌幸は、合戦は勝つものと考えていた。

負ける戦いはしない。

そのため、あるときは徳川と組み、あるときは上杉と組んだ

ちなみに、戦国時代には、「討ち死にしろ」

と将たる者は簡単に言わなかった。

多くの者は、戦いに勝つことのみを願い、例えば、一時降伏したりしても、人を騙しても、生き残ることを選んだ。

真田昌幸は、上田城を築城し、その上田城を拠点にして、小さいながらも戦国大名として生き残った。

上杉征伐では、真田昌幸、嫡男の信之、次男の幸村とともに、徳川秀忠勢として従軍していた。

しかし、下野の犬伏において、三成から西軍加担の要請を受けた。

宇都宮にいた嫡男の信之を呼んで、次男の幸村とともに三人で密談した。

その密談が長いので、家臣が様子をみるため、近づくと、下駄を投げつけたという逸話が残る。

真田昌幸の後妻は、宇多頼忠の娘で、石田三成の妻とは、姉妹。

真田昌幸の娘は、宇多頼忠の子の頼次の妻であった。

河内一万三千石の宇多頼忠は、西軍の三成に味方した。

次男の幸村の妻は、西軍の大谷吉継の娘であった。

密談の結果、真田昌幸は、幸村とともに西軍に味方し、嫡男の信之は、東軍に味方することに決した。

真田昌幸は、幸村とともに、上田城に戻り、籠城の準備をした。

三万八千の徳川秀忠勢に対して、真田勢は二千余り。

九月二日、小諸城に入った徳川秀忠は、真田信之に命じて、真田昌幸に降伏するように伝えた。

真田昌幸は、時間稼ぎのため、応じるようにみせかけたが、後日、降伏勧告を拒否した。

九月六日、真田勢は、城を出た。

それを見た、徳川勢が攻めてきた。

真田勢は、城内に退却した。追ってきた、徳川勢を伏兵が攻撃した。

そして、真田幸村が大手門から攻めるとともに、城の外の砦から出て、攻撃した。

徳川勢は、逃げた。

真田勢は、神川の堰を切って、増水して激流となり、溺死したりした。

徳川勢は、敗北した。

真田勢のため、徳川秀忠勢は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

家康は、衣装は地味で、目立ち屋の人は嫌い、どちらかというと地味であった。

真田幸村は、父とともに目立ちやがり屋で、新しもの好きな秀吉は感覚的に好きであった。

父の真田昌幸は、居城の上田城において徳川を二度破った男。

三方ヶ原の戦いで、武田勢の歩卒隊長として、家康を破った。

真田昌幸は、真田幸隆の三男であった。

武田信玄は、武田一族の中で、武藤家が断絶になっていたため、真田昌幸に武藤家を継がせた。

真田昌幸は、武藤喜兵衛と氏名をかえた。

武田信玄を師として、その軍略を学んだ。

武田信玄の亡き後、武田家は勝頼が継いだ。

長篠の戦いで武田勝頼は織田信長に破れた。

その長篠の戦いで、真田昌幸の二人の兄の真田信綱、昌輝が討死した。

その後、真田昌幸は、真田家を継いだ。

多くの武田家一門、家臣は武田勝頼から離れていったが、真田昌幸は離れなかった。

その後も、武田勝頼を支えた。

このような律儀な面もあった。

その律儀な面が出たのかわからないが、一貫して家康を敵とした。

大坂城に入城するか否か。

父なら、即決しただろう。

死ぬ間際まで徳川との一戦を心待ちにしていた。

真田幸村は、心の奥底からまだ生き足りないと思っていた。

真田の旗をあげたい。

そう考えることにより、やっと生きていると実感ができると確信していた。

一人、夜空を眺めて、父、上田城を思い出した。

父の真田昌幸は、次男の幸村を愛した。

戦場では、実際に戦術を教えた。

九度山での蟄居生活の中でも教え続けた。

心密かな希望を抱いて、大坂城に入城しようとした。

真田幸村は三千の兵を率いた。

これは、十万石の大名に相当した。


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