東京港区の福島正則の墓近くの商標登録
東京港区の福島正紀の墓近くで商標登録をしています。
福島正則の墓は、東京港区にあります。
何度か、行っています。
商標登録は、東京港区のプレシャス国際特許商標事務所
福島正則は、眉毛が濃く、団子鼻、首が太く、がっちりとした体形。
今のラグビー選手のようで感じであった。
福島正則は、一五六一年(永禄四年)、母は秀吉の母の妹で、尾張に生まれた。
家は、桶屋で、怪力の持ち主。
幼少より豊臣秀吉に仕え、市松と称した。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田勢の追撃戦で、一番槍の武功をあげ、賤ケ岳の七本槍の一人。
一五八五年(天正十三年)、伊予の今治十一万石を与えられた。
九州攻め、北条攻め、朝鮮の役などで活躍した。
一五九五年(文禄四年)、尾張清洲二十四万石。東軍の主力として最前線で活躍。
また、兵糧米を工面するなどの功は大きく、関ヶ原の戦い後、安芸広島五十万石をもらったが、決しておごらず部下をねぎらったといわれている。
一六一九年(元和五年)、城の無断修築で領地没収となる。
一六二四年(寛永元年)に亡くなった。
福島正則は、豊臣家を存続させたい。それが本音であった。
しかし、関ヶ原の戦い当時、三成が憎いとの感情は抑えることができないほど強かった。
三成が自分の上に立つことは許せなかった。
豊臣家は存続させたいが、三成に味方はできない。
初めに、秀吉に会ったときを思い出し、幼少のころの記憶が蘇った。
福島正則は関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の大名で勝ち、家康に対抗できるようにしたい。
徳川勢より、豊臣勢が手柄を立てて、豊臣の影響力を強めておく必要があると考えていた。
福島正則は、家康に味方すると言い、清須城にある米三十万石を進上した。
家臣の祖父江法斎を長として、情報を集めた。
例えば、西軍の使者の脱糞まで調べて、脱糞の温度で、時刻を推測したりした。
正則は、家臣に「憎むべき三成勢と直接決戦する」と、石田勢と戦いを望んでいた。
しかし、対峙しているのが、宇喜多勢と知り、がっかりしていた。
福島丹後は、正則を諌め、「戦機を逃してはなりませぬ」と諭した。
正則は、小山で「このたびの反乱は、三成個人の計であって、天下を乱さんとするものである。他の人はいかになさるとも、自分はこのような時機に臨んで、妻子に引かれて武士の道を踏み違えるようなことはいたさない所存である。内府公の御為に、身命をなげうって御味方をする決心である」
と大声で話し、豊臣恩顧の大名の東軍の参加を促進した。
しかし、後に、そのことを後悔したともいわれている。