関ヶ原

商標登録プレシャス
商標登録
trademark registration

東京都港区  
プレシャス国際特許商標事務所
弁理士 日本弁理士会会員

関ヶ原に関する商標登録もなされています。例えば、「決戦\関ヶ原」が「泡盛,合成清酒,焼酎,白酒,清酒,直し,みりん」について商標登録されています。

関ヶ原について、思いついたことを書きます。

関ヶ原合戦までの経緯

豊臣秀吉は、凋落を多用し、合併のような形で天下を統一した。

織田信長の武力による領土の拡張を図る方針では、時間がかかると判断した。

そのことは天下統一を早めたが、その分、利で釣って味方につけたため、利がなくなると離れていくのも早い。

庶民は、国内の争いに留まらず、国外、朝鮮での戦いで、戦いに疲れていた。

そのため、時代は太平の世の実現の流れとなっており、秀吉の死後、それを実現できるのは、家康という空気になっていた。

一五九八年(慶長三年)、秀吉は、朝鮮の役の最中、死去した。

秀吉の後継者の秀頼が六歳で幼かったため、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)と五奉行(浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)体制で、豊臣家の安泰を図ろうとした。

しかし、徳川家康は、秀吉が禁止した、大名間の縁組などのことを反故にして、伊達正宗、福島正則、蜂須賀家政らとの婚姻政策を進め、勢力の拡大を狙った。

それに対して、石田三成、前田利家らは反発した。

一五九九年(慶長四年)正月、三成、利家、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝らは、家康に詰問使を遣わした。

二月、家康と利家は、婚姻破棄を条件として、誓紙を交換した。

その結果、衝突は、回避された。

三月、前田利家は病死した。

反家康の核である利家の死は、家康派を勢いづかせた。

朝鮮の役のときの確執などにより、反三成の加藤清正、福島正則、加藤嘉明、黒田長政、細川忠興、池田輝政、浅野幸長の豊臣七将は、三成襲撃を計画して、実行しようとした。

しかし、三成は、機転を利かせ、大坂から、京の伏見にある家康の屋敷に逃げこんだ。

家康は、七将を止めた。

その後、三成を佐和山城に送り届け、謹慎させた。

三成は、引退させられ、政治の表舞台から退いた。

一方、家康の勢いは増した。

家康は、伊達正宗、福島正則らの婚姻を復活させた。

また、大老の毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家を相続した利長を、それぞれ領国に帰国させた。

その後、家康は、豊臣秀頼に拝謁するため、伏見から大坂に来た。

九月七日の夜、増田長盛、長束正家は、家康の大坂の宿に来て、前田利長、浅野長政、土方雄久、豊臣秀頼の側近の大野治長が、家康の暗殺計画を企んでいると密告した。

家康は、前田利長には実母の芳春院を江戸で人質になることを要求した。

芳春院は、家康の要求をのんで、人質となった。

その結果、利家亡き後の前田家を屈服させた。

浅野長政には、居城の甲府、武蔵の府中において蟄居処分とした。

土方雄久には、能登の石崎一万石を改易し、佐竹義宣の領土の常陸太田に流した。

大野治長には、下総の結城に流した。

上杉景勝は、会津に帰国すると、城を補強したり、道路や橋を修築したりした。

そして、会津若松城の西南に神指原に新しい城の築城を始めた。

また、浪人を多数、召し抱えた。

越後三十万石の春日山城主の堀秀治、出羽四万国の角館城主の戸沢政盛は、上杉家に不穏な動きがあるとして、家康に報告した。

一六〇〇年四月、家康は、上杉景勝に上洛を要請した。

しかし、上杉は、上洛を拒否した。

五月三日、家康のもとに、上杉の直江兼続からの書状が届いた。

家康は、上杉討伐を発命した。

六月十六日、家康は、会津の上杉討伐のため、大坂城を出発した。

六月十八日、家康は、京の伏見城を出発した。

七月二日、家康は、江戸城に到着した。

七月十二日、石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊、増田長盛らが、家康打倒のため、佐和山で密談した。

同日付で、増田長盛は、家康の家臣の永井直勝に密談の内容を記載した手紙を出した。

七月十七日、増田長盛、長束正家、前田玄以は、内府ちがいの条々を各地の大名に発した。

これにより、石田三成らは、家康に宣戦布告した。

毛利輝元は、西軍総大将として、大坂城に入城した。

七月十九日、西軍は、伏見城を攻撃。

七月二十一日、家康は、江戸を出発し、会津に向かう。

七月二十二日、西軍は、田辺城を攻撃。

七月二十四日、家康は、上杉討伐の途上、下野の小山に本陣をおいた。

その時、三成挙兵の報が入った。

七月二十五日、東軍は、小山評定をし、三成討伐のため、西上を決めた。

七月二十六日、東軍の福島正則、池田輝政らは、小山から西に向かった。

八月一日、伏見城が落城した。

八月五日、家康は、江戸城に到着した。

八月九日、西軍は、加賀で東軍の前田勢らと戦う。

八月十一日、三成は、居城の佐和山を出陣して、大垣城に入城した。

八月十四日、東軍は、清須城に集結した。

八月十九日、家康の使者が、清須城で、家康の口上を述べ、決起を促した。

八月二十三日、東軍の福島正則、池田輝政らが、西軍の織田信秀の岐阜城を攻め、落城した。

八月二十四日、東軍は、赤坂に集結した。

徳川秀忠は、宇都宮を出発し、中山道を進んだ。

九月一日、家康は、江戸城を出発した。

九月二日、徳川秀忠は、上田城の真田昌幸と戦った。

九月三日、北陸方面の西軍の大谷吉継らは、関ヶ原に着陣した。

九月七日、伊勢方面の西軍の毛利秀元、吉川広家、長曾我部盛親、長束正家らは、南宮山とその東麓に着陣した。

九月八日、三成は、佐和山城に一時帰っていたが、大垣城に戻った。

家康は、遠州の白須賀に着いた。小早川秀秋の使者と会った。

九月九日、上杉の直江兼続は、米沢城を出陣し、最上の領土に侵攻し、長谷堂城で戦った。

黒田如水は、九州の中津城で金銀により浪人を集め、豊後に向けて、出陣した。

九月十一日、家康は、清須城に入城した。

九月十二日、三成は、毛利輝元の美濃への出陣などを要請した手紙を増田長盛に出したが、毛利輝元は、大坂城を離れなかった。

九月十四日、家康は、赤坂に着陣した。

西軍の小早川秀秋は、松尾山山頂に着陣した。

九月十五日、関ヶ原の戦いとなった。

東軍と西軍に加え、毛利勢らの中立派の、三つの勢力が対峙していたともいえる、関ヶ原合戦であった。

風俗

関ヶ原合戦とき、豊臣家の直轄領は二百二十万石と鉱山があった。金九万枚、銀十六万枚の約二百五十万両。石高としては、約七百五十万石。

豊臣秀吉は、世界一大きな金貨、縦十七センチ、横十センチある、天正大判をつくった。天正大判、古大判などの大判は、関ヶ原の戦い以前から使われていた。

秀吉は蓄財していたため、豊臣家には蓄えがあった。

戦には、お金が必要。

家康は、質素倹約して、金銀などを貯めていた。

秀吉の存命のときより、家康の方が金銀を持っていたともいわれている。

信長は、楽市楽座、貿易などで、富を得た。

黒田家は、曽祖父からの商人で、金貸しで財を蓄えた祖父がおり、蓄財していた。

如水は、金銀を用いるべきことに用いなければ、石瓦と同じであると話していた。

そのことを、関ヶ原の戦いにおいて実践した。

豊前の中津城の大広間に、金銀を積み上げ、浪人、農民などから九千人の兵を集めた。

その兵の中には、宮本武蔵の父も加わっていたといわれている。

徳川家康は、関ヶ原合戦後、全国の「道」の整備を行った。一六〇一年(慶長六年)、東海道に五十三の宿場をつくった。一六〇二年(慶長七年)、中山道は、日本橋を起点とした街道の一つとして整備が進められた。そして、日本橋を起点として、奥州街道、日光街道、甲州街道が順次、整えられ、東海道と中山道を含めて五街道となった。

関ヶ原が東西の文化の分かれ目。東西で文化が違う。例えば、食文化について、東は、鰹だし、西は、昆布だしが好まれている。昆布は、西回り航路、主産地の北海道から日本海沿岸を経て大阪に運ばれた。上質な昆布は、西日本において流通した。そのため、関西は昆布だしになったといわれている。一方、鰹節の生産拠点が焼津にあった。そのため、関東は鰹だしになったといわれている。また、関東は角餅、関西は丸餅。餅は、元来、神が宿る食べ物とされ、鏡に似せた丸餅の形であった。そのため、関西では丸餅。江戸では、人口が急増し、餅を大量に生産した。そのため、伸して切り分ける角餅が登場して、広まったといわれている。

関ヶ原合戦のとき、東軍の足軽は、握り飯、塩、梅干、焼き味噌などを食べた。中には、陣立味噌、卵、木の実、兵糧丸などを食べている足軽もいた。美濃、飛騨の兵は、酢飯ときゃらぶき、椎茸などを朴葉で包んだもの、朴葉(ほうば)ずしを、携帯食、保存食として、持参して、食べていた。焼き味噌に味醂を入れた、魚を食べた。福島正則などの大名は、朝食に、勝栗、昆布、駿河の鮑を食べた。肉は、鹿、馬、犬、鶏。魚は、真鯛、マダラ、フグ、アジ。サザエ、ハマグリ、赤貝、鮑。兵たちは、うどんを食べた。うどんは、大坂城の築城のときに食べられており、戦国時代から、大坂の庶民の間で食べられるようになったといわれている。

大名は、生そうもんを食べた。戦国時代から、京、大坂では、生そうもんが、貴族などの間で食べられていたといわれている。大名たちは、能を見て、楽しんだ。囲碁をしたり、タバコを吸ったりした。

普通の人々の食事は、二食。玄米、味噌汁、野菜の漬物、鳥、魚を食べたりしていた。

ちなみに、家康は、江戸入りのとき、摂津の佃などから森幸右衛門などの漁師を連れてきた。そして、魚を献上させたが、その余りを売りに出した。魚の市場は、一六一六年(元和二年)、大和田助五郎が日本橋本小田原町に魚市を開いたのが最初といわれている。

肥後から来た兵は、馬肉を食べていた。馬肉文化の始まりは、肥後の熊本城主の加藤清正といわれている。

風呂に入った。当時、まだ、銭湯はなかった。業としての湯屋は、「慶長見聞集」によると、家康が江戸に入った翌年の一五九一年(天正十九年)の夏、伊勢の与一という男が銭瓶橋のほとりに銭湯風呂をたて、永楽銭一文で入浴されたのが始まりといわれている。当時は蒸風呂であった。