東京港区の白金の歴史
東京の港区の白金は、しろかねと読みます。
天現寺付近から明治通りにかけての広尾のふる川について、歌川広重の絵があります。
この絵は、1856年に描かれたとされています。
古くは、しろかね、銀、白銀と呼ばれていました。
鎌倉時から室町時代に、武蔵野に豪族の白金長者がいました。
その白金長者が移住したことから、白金になっといわれています。
白金については、以下、ウキペディアの記載です。
一般に「しろかね」と「しろがね」が混用されて読まれる白金だが、町名の白金は正しくは「しろかね」と発音し、「しろがね」ではない。一般にはどちらの読み方もされてきたが、
- もともと町名の起源となった白金長者(応永年間に白金地区を開墾した柳下上総介)は、白金(しろがね=プラチナ)ではなく、大量の銀(しろかね)を保有していたために白金長者と呼ばれるようになったこと
- それを裏付けるように、『小田原衆所領役帳』では「白銀」と記されていること
などの歴史的事情を考慮して、1969年(昭和44年)1月1日に白金地区に住居表示が実施された際、港区が「しろかね」を正式町名として採用したという経緯がある。
白金の隣の高輪で、商標登録、意匠登録などを行っている、プレシャス国際特許商標事務所